長次郎焼は楽焼の始めである。その特色を述べる前に、楽焼について簡単に説明しておこう。
楽焼は、日本独特のやきもので、諸外国に類例を見ないものである。
楽焼は日用雑器を作らない。楽焼の製品は、茶碗、茶入、水指、花入、香合、鉢、向付、菓子器、火入、灯火皿、香炉など、茶の湯のための器に限られている。
中国や朝鮮系のやきものは素焼をしない。陶土や磁土を轆轤台の上にのせ、轆轤を足で蹴って回して作る。それを陰干して、ある程度乾くと、染付の場合は、白地の生地に、コバルトで絵付をする。コバルトが乾くと、その上に透明の釉を掛けて窯に入れて焼く。色絵付する場合は、焼き上がった釉の上に、さらに数種類の絵具を塗り、錦窯(外窯と内窯からなり、内窯に器物を入れ、外窯との問に炭火を入れる)に入れて焼き上げる。その他、いろいろのやり方があるが、基本的には以上の通りである。
ところが楽焼は、轆轤を使わない。陶土を充分に練り上げて、丸い板の上にのせて平な板状にする。その土の板を周囲から手で起して、茶碗の形を作る。適度に乾かしてある程度固まると、掌や丸い板にのせて、竹や鉄の箆で削って仕上げてゆく。樂家では、代々、自分の好みの鉄箆を数十本作るとのことである。削り上げると窯に入れて素焼する。
黒楽の場合は、素焼した上に黒釉を塗り、陰干して乾かす。乾くと、また黒釉を塗る。こういうことを数十回くり返す。最後に塗った黒柚が乾くと、匣鉢(さや)(焼成の際、器物を保護するための耐火粘土製容器)に入れて窯で焼く。窯の温度は大体千二百五十度という。普通の黒楽の製作はこれで終る。(注1)こうして、窯の上部からのぞいて、焼き上がったのを見すまし、鉄の鋏にはさんで窯から取り出して急冷する。(注2)黒釉は、加茂川石を用いる。また、赤楽は、聚楽土あるいは、他の白土に黄土を化粧がけして素焼し、古くは唐土、日の岡石(珪石微粉末)をまぜたもの、あるいは白玉(無色ガラスの微粉末、熔融温度を低減させる)・フリット釉(釉薬をるつぼに入れ高温度の融解ガラスとし、これを水中に投じ、微粉砕したもの)を用いる。『乾山伝書』(けいざんでんしょ)では、黄土にベンガラ丹土(酸化鉄を主成分とした赤っぽい土)を少し加える方法が書かれているが、樂家では、黄土しか使わないという。陶土に水簸(精製)した目の細かいものを用いるので、赤楽の場合の窯(注3)の温度は千度ぐらいと、黒楽より低い温度で焼く。中国や有田の磁器は、大勢の人によって分業で製作されるが、楽家の場合は当主一人が製作し、黒楽の窯の時には特に数人の、古くから楽家と関わりの深い人々が集まって焼く。
長次郎の楽焼と、道入以後の楽焼とは異なっている面も見出される。その相違を、黒楽茶碗と、赤楽茶碗によって検討してみよう。
黒楽茶碗---長次郎の黒楽茶碗と、道入以後の黒楽茶碗とを鑑別する第一のポイントは、肌の色である。道入以後の黒楽茶碗は、黒々とした烏羽玉色で艶がある。長次郎の黒楽茶碗の肌は、煤けていて、艶がない。黒色は、色あせた紋付羽織のような羊羹色である。やや茶色味を帯びている。これは製作の仕方が、道入によっていくぶん改良されたと考えられるからである。たとえば、次のように考えられる。
第一に、長次郎時代は、瓦窯に準じた窯である上に、鞴(ふいご)の調子がよくなかった第二に、素焼をしないで、箆で削り上げ、陰干した茶碗に、そのまま黒袖を掛けた。いわゆる生掛けをした。(注4)第三に、匣鉢(さや)に入れないで、裸のまま焼いたので、肌に煙があたったり、灰がふりかかって、艶が失われたのである。
赤楽茶碗---長次郎の赤楽茶碗は、同一色のものがない。赤らしい赤がない。道入以後の美しい赤色の楽茶碗と見比べると、赤色というよりはむしろ白味がかったもの、茶色味がかったもの、黄色味がかったものなど、さまざまである。
さて、長次郎焼の茶碗の作行きの一般的な特徴は、宗慶印や常慶印のある作品のように、個性のあるものがないことだ。その作行きを見ると、いろいろの手ぐせはあるが、次にあげる七つの形に限られており、お手本に従って作ったもののように思われる。わたくしは、利休の書いた図面か、紙型が手本にされ、製作する時の気分や、個人の趣味によって、多少の祖遅が生じたのではないかと考えている。
@道成寺形---これは、口縁の開いた形である。朝鮮の井戸茶碗や熊川(こもがい)茶碗の形からヒントを得たものである。利休の独創性を発揮していないから、利休が平常使用していた朝鮮茶碗を真似して、注文したものであろう。この形の茶碗は、この一つだけである。高台とその周囲が土見せ(釉がかからないで、素地の土が見えること)になっているが、長次郎の茶碗で土見せになっているのもこの一つだけである。
A俊寛・雁取形---この形は、腰から底にむかってきつく曲がっており、丸味が少ない。胴が立っている。胴には箆削りによって凹凸が作られ、底も平でなく、変化のある削り方である。この形は黒楽茶碗に多い。黒は、法輪寺、面影、ヒン僧、五月雨、更衣、草庵、松年、蝸牛、尼寺、小鷹、春朝など。赤は夕暮、うめがへ、つつみ柿。
B東陽坊形--腰にかすかな段があって、底へ曲がっている茶碗である。底へ向かう斜めの線にはややふくらみがある。これは赤楽茶碗に多く、早船、木守、無一物、一文字など。黒は東陽坊のみである。
C大黒・太郎形---腰に丸みのあるもので、胴は立っており、典型的な宗易形といえる茶碗である。利休は、この形と、俊寛形が気に入っていたのではあるまいか。この形も数が多い。黒は、北野、まこも、桃花坊、あやめ、禿(かむろ)、次郎坊、古狐、利休、養老、大威徳など。赤は太郎坊、二郎坊、三輪、枝柿、なでしこ、空花、湖月、埜狐、いよすだれ、玄翁などがある。
D杵ヲレ形---筒茶碗である。『利休百会記』の天正十九年(一五九一)閏正月の六回の茶会に「せいたかくろ茶碗」が出てくるだけで、他の文献には出てこない。記録に出てくるのが少ないのと同じように、伝世品も少ない。わたくしはこれ以外に、滴翠美術館の苔志水(こけしみず)を見ているだけである。
E隠岐島形---これは平茶碗である。平茶碗に限って、胴の箆削りが荒く変形が多い。ただ赤楽平茶碗には、穏やかなのがある。平茶碗は利休の茶会記には出てこない。遊行、黒楽平、赤平。
Fムキ栗形---この形は特殊な形で、一つしか伝世していない。枡に茶碗の底をつけたような形である。口縁は平。高台内には兜巾渦巻(中央が盛り上がった渦巻形の削りあと)がある。黒色がくすんで羊羹色をしている。利休は四方釜を愛玩しているから、こういう形の茶碗を注文したのであろう。
以上、七つの形の茶碗に共通した特徴がある。これは次の通りである。
A 口縁が平で、五岳(ごがく)などという考えはまったくない。多少波打っていても、故意に 作ったものではない。
B 見込に、作為的な茶溜や、茶筅ずれ(見込、茶溜周辺部分。茶筅が当たるあたり)がな い。わずかに中央がへこんだものや、見込の側面にへこみのあるものがあるが、楽茶碗の約束として作られたものではない。
C 高台が丸く、縁巾も適当で、穏やかである。
D 道成寺以外は総薬である。
E 無印である。
長次郎焼のはじまり
利休が、瓦師の初代長次郎に、楽茶碗を作るように命じたのは、茶の湯の佗び化が進んで、三畳台目以下の小間の茶室が作られ始めたからである。小間の茶室には天目茶碗はふさわしくない。高麗茶碗は、小問の茶室に似つかわしいが、輸入品で、町人階級が加わって、茶人の数が増加してくると不足がちであった。利休は、小問の茶室につり合った茶碗を日本で作ろうと考えたのであろう。というのも、茶会記に楽茶碗が記録され始める時期と、三畳台目以下の茶室が使用され始める時期(注:5)とがピッタリ一致しているのである。
楽茶碗は、茶会記に、宗易形茶碗、今焼茶碗、茶碗黒渓?(あやめ)、黒焼茶碗、木守、背高黒茶碗、黒、黒茶碗などと書かれている。楽茶碗と楽水指と楽茶入が茶会記に出てくるのは次の通りである。
楽茶碗---天正十四年(一五八六)十月に用いられたのが初めてで、(注:6)文禄元年まで128回。
長次郎水指---天正十四年十月、1回。
長次郎香合---天正十四年十月、2回。
このように、楽焼は、二畳台目が天正十三年六月に初めて記録されてから一年半近いあとの、天正十四年十月から使用されたことになっている。
楽茶碗の創始が、天正十四年頃だとするもう一つの根拠は、楽茶碗の胎土である。道入までの楽茶碗は、ほとんど全部聚楽の土によって作られている。聚楽の土は、細かくてねばっこく、鉄分が多いので、赤茶色や黒茶色をしている。赤茶色でも、聚楽の土と若干異なって見えるものもあるが、これは、他の土がまぜられているからだと思う。少なくとも白がかった土で作られたものはひとつもない。長次郎がこの聚楽の土を用いたのは、秀吉が聚楽第を建造して、聚楽の土を大量に掘り起したからである。
聚楽第の工事は天正十四年の春から始められ、翌年の秋には完成している。その土は、天正十四年半ば頃から使用できたと考えられる。小間の茶室が普及した時と、楽茶碗が焼かれた時と、ピタッと一致している。それ以前には、楽茶碗は作られていない。利休は、この聚楽第に使用する瓦を初代長次郎に焼かせていた時、楽茶碗を製作しようと考えたのだとわたくしは思う。
楽窯の最も大きな特徴は、利休と利休の子孫である千家と密接に結びついていることである。徳川時代は特に千家との結びつきが深い。千家十職は明治以後にきめられたもので、利休時代から、千家の注文をもらったのは楽家だけで、その次が宗旦の時代から関係した一閑張の飛来一閑と、塗師の中村宗哲で、他はずっとあとの関係だ。表千家七代の如心斎とその弟であり、裏千家八代の又玄斎が相談して家元制度を確立してからは、この関係は不動なものになった。もっとも、利休時代は、利休の注文を製作することが主であったが、宗旦以後は、独自の製作が大部分で、千家の注文は、ほんの一部にすぎない。
徳川初期に成立した武士茶の湯の、織田有楽、細川三斎は、楽の製品を使用したが、金森宗和、小堀遠州は、町人階級趣味の楽焼を嫌つてまったく使用しなかった。遠州流は、先代まで楽焼を使用しなかった。片桐石州は、楽窯に注文したが、以後の石州流の人々は関係がなかったようである。古田織部は、利休の生存中は利休好みの道具を使用したが、利休が亡くなると自分の独創的な好みの陶磁器を作らせて、もっぱらそれを便用した。
こんな関係で、楽焼には、千家代々の箱書がたくさん残っているし、楽焼の真贋鑑定の一つのポイントになっている。楽焼を鑑定する場合は、まず楽印の真偽を検討する。印のないものは、作行き、釉などから判断する。次に作者の共箱があればまちがいないとする。その次にこの千家代々の箱書を見る。同時代の家元の箱書なら確実性が最もある。時代の近い家元の箱書は、その次の証拠になる。代が離れるに従って確実性がうすくなる。こういうことは他のやきものにはないことである。このことは、楽家の箱書についてもいえる。共箱でなくても作者の年代に近い代の証明は、遠い代のものより保証度が高いのである。楽焼では、箱書のまったくないものには、偽物が多い。
また楽焼では、楽家以外の楽焼の陶工を、脇窯といって区別している。玉水焼、金沢の大樋焼がそうである。大樋焼は、寛文六年(一六六六)加賀藩主五代の前田綱紀が、裏千家初代、利休からは四代の仙叟(せんそう)を茶道役として招いた時、一入の弟子土師長二を金沢につれて行き、大樋村に定住させて楽焼を作らせたのが始まりとされている。このとき一入は、黄赤褐色の飴釉(あめゆう)を使用する特権を長二に与えた。これが大樋の特徴のある飴釉である。それゆえ一入には飴釉の作品が若干あるが、茶碗に関しては他の代にはない。
最後に楽焼の見方について整理しておこう。茶碗が、いちばん多くの要素を備えているので茶碗について述べたい。楽茶碗にかぎらず、なんの茶碗でも、姿・肌の色・土・手取りを味わうことが大事だが、楽焼の場合は特にそれから口縁(くちべり)を見る。平か、どんな波を打っているか。次に、胴は平か、ふくらんでいるか、箆削りの凹凸があるかどうか。第三が釉薬の状態。カセているか、いないか。艶は。また赤楽なら、その赤色の具合を見る。次に、今度はひっくり返して高台を見る。高台が丸いか、歪んでいるか。高台の目は三つか五つか。そして、地土が見えていれば、聚楽の土か、伏見大亀谷の土であるかを見る。一入以後は伏見大亀谷の土を、一代で三千貫(約十一トン)程度取りよせて、からしておき、次の代から使用することにしている。この土は、大体楽家でしか使用しないから、すぐ他の窯のものと区別がつく。聚楽の土は、鉄分が多いので赤茶けたり赤黒くなっているが、大亀谷の土は白茶色でさくっとした土である。第六に何代の印か見る。第七に、見込を見て、茶溜と茶筅ずれがあるかどうか、あればその形がどんな具合かを見る。以上、前述の楽家各代の特徴の概略を参考に、ジックリ鑑賞していただきたいと思う。
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「長次郎焼・初樂入門」大河内風船子
講談社カルチャーブックス「日本のやきもの」
室町時代後期から桃山時代にかけては、鎌倉時代にはじまった我が国における喫茶の風が固有の文化として高い内容をもつ侘数奇の茶に発展し、その内容が大いに深まった時代であった。
そして「侘び」の茶風の究極の姿として「草の小座敷」の茶の湯が形成されるとともに、そこで用いられる道具も、茶風に応じて新しい創意をみせ、日常的なもののなかに茶の道具としての適性と美を求めて見立てられ、あるいは創作されるようになったのであった。すなわち中国から請来された唐物茶碗にしても、上質の建盞や砧青磁よりも麁相な灰被天目や珠光青磁を賞揚し、さらに朝鮮半島の地方窯で生産された粗放な作振りの高麗茶碗が新らしく見立てられ、和物の茶碗も従来瀬戸で生産されていた唐物天目を写した瀬戸天目に替わって瀬戸黒や黄瀬戸、志野など、新らしい作振りの茶碗が焼造されるようになったのであった。
そうした侘の茶風を先達となって大成させたのが千利休(一五二二〜九一)であったことはあらためて云うまでもなく、長次郎の楽茶碗は、その利休居士の侘の茶に対する理念をうけて特に造られた茶碗であり、利休のいう「草の小座敷」にふさわしい茶碗として牛まれたものであった。この意味で長次郎の茶碗は、茶の湯の茶碗とはいかにあるべきか、という想いから生まれたものであったのであり、茶の湯者利休居士と陶者長次郎との協同作業によって為された造形物であったといえる。しかし利休と長次郎がいつ出会い、その茶碗がいつ頃から焼造されるようになったかはいまなお判然としていない。
桃山の茶会記には「長次郎茶碗」という呼称は見当たらない。しかしおそらく長次郎の茶碗ではなかったかと推定される呼称はある。それは『松屋会記』の天正十四年(一五八八)十月十三日の条で、この日に、奈良中坊の井上源吾が催した茶会に用いられている「宗易形ノ茶ワン」は、あるいは長次郎の茶碗ではなかったかと推定されるのである。「宗易形」の茶碗が長次郎の茶碗であったと断定しうる記録はない、しかし当時の茶会記を注目していると、それが長次郎の茶碗であったことがほぼ推定されるのである。
さらに天正十四年以前の茶会記に目を通してみると、そこにもあるいは長次郎茶碗ではなかったかと推定しうる記述が津田宗及の『天王寺屋会記』のなかに二、三見当たるのであり、それは天正七年(一五七九)十月十七日に山上宗二の茶会で用いられた、「赤色之茶碗」。天正八年十二月九日の茶会に千宗易が用いた「ハタノソリタル茶碗」。さらに天正十一年二月十三日にやはり山上宗二が用いた「そり茶わん」の三例で、いずれも長次郎焼の茶碗と断定はできないが可能性が窺われるのである。「赤色之茶碗」としては唐物天目に赤褐色の釉色のものがあるが、それならばやはり天目として記載するのが当時の通例であり、「ハタノソリタル茶碗」の場合も、口部が端反りになった茶碗は高麗茶碗のなかに数多くあるが、しかしそれならばやはり高麗茶碗と表示するのが通例である。ところが茶会記にみる三例は、「赤色之茶碗」「ハタノソリタル茶碗」と色調や形状を端的に記しているだけで、それがどこの茶碗であるかに触れていないのは興味深く、それこそあるいは新しい茶碗、長次郎焼の出現ではなかったかと想定されるのである。しかもそれらを用いていたのが山上宗二、千利休という長次郎に近い代表的な茶の湯者であったことも注目すべきで、「赤色之茶碗」は長次郎焼の赤茶碗、「ハタノソリタル茶碗」は「道成寺」のような熊川に似たような端反り形の長次郎焼茶碗であったのではないだろうか。
そして天正十四年十月十三日以後、桃山の茶会記には、にわかに「今ヤキ茶碗」または「ヤキ茶碗」「やき茶碗」という呼称が記載されるようになる。今焼茶碗とは、現在焼かれた新しい茶碗ということであるから、一般的な用語としてとらえれば時代の新作茶碗すべてを指すとも考えられるが、天正年間における「今焼」は明らかに宗易形の茶碗を造った長次郎焼に対する呼称であった。当時の新作茶碗としては美濃で焼かれていた瀬戸黒や黄瀬戸、志野をあげることができるが、しかしそれらに対しては「瀬戸茶碗」という明確な表示があったのであり、「今焼」と「瀬戸茶碗」は明らかに別種のものとして茶会記には記録されている。天正十六年の奥書のある『山上宗二記』に「惣別茶碗ノ事、唐茶碗ハ捨タリタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也、頃サヘ能ク候ヘハ数奇道具二作也」と記されていることも、そのことを明らかにしている。
利休好みすなわち「宗易形」の長次郎茶碗の登場と、それに遡っての長次郎焼茶碗の出現を想定してみたが、ここで私達は樂美術館に所蔵されている長次郎作の獅子の瓦に注目しなければならない。獅子瓦には「天正二春 依命 長次良造之」の銘文が腹部に刻されている。天正二年の春に誰の命によってこの獅子の瓦が製作されたかは判然としない。ところが、この瓦に用いられている赤い胎土と上にかかった半透明性の白い釉は、明らかに現存の長次郎焼の赤茶碗のなかでも初期の作ではなかったかと推定される「白鷲」「無一物」「道成寺」などと同じ質なのである。したがって長次郎による赤茶碗の製作は、技法的には天正二年(一五七四)からすでに可能であったのであり、したがって天正七年の「赤色之茶碗」を長次郎焼とする仮説は技術的にも肯定できるのである。
だが、長次郎の造った茶碗が「宗易形」の茶碗として注目されるようになったのは天正十四年のことであり、しかもそれ以後「今焼茶碗」として利休を中心に天正年間の茶の湯の場で大いに用いられるようになったことは、天正十四年になにか注目すべき変化が長次郎焼の茶碗の上に起こったことを考えさせる。それが「宗易形」としてはじめて記録されていることからも、利休好みの茶碗としての「形」がこの頃確立し、さらに推測を加えれば、天正十四年頃に長次郎の工房ではじめて黒茶碗が焼造されるようになったのではないかとも考えられる。利休は黒い色を侘びの茶の湯に適うものとしていたのであり、従来赤茶碗を主体としていた長次郎工房に、美濃の窯業地ですでに永禄年間頃から焼造されていた瀬戸黒の引出し黒の作陶技術を学ばせ、轆轤成形の瀬戸黒とはちがった、手捏ねの黒茶碗を焼かせるようになったのではなかったか。
さらに、現存する長次郎の茶碗を概観すると、いわゆる職人芸的な企一性が認められないのも一つの特色であり、赤、黒ともに同様の作振りのものはかなりあるが、まったく同一の形姿、釉調のものはなく、やはり一作一作彫塑的な作業によって造られたものであることが判然とする。そしてその形式の基本をなしているのが赤茶碗では「無一物」「一文字」、黒茶碗では「大黒」のような作振りの茶碗であったように考えられるのであり、私達は、その形こそ宗易形ではなかったかと推定して「無一物」「一文字」「大黒」などを長次郎焼茶碗の基準作例として、その特質を論じ、ひいては利休の侘びの茶の造形観にまで踏み込んで考察しているのである。
現今にいたる侘びの茶風の歴史は五百年に及ぶ。その間茶の湯者達は、茶碗というもの、茶碗のありかたにこだわりぬいてきたといつても過言ではない。唐物、高麗物、和物それぞれに色や形をもち、それなりの特色をもつている。そして私も、それら数多くの茶碗に接した上で、いま茶の湯の茶碗とはいかなるものであるべきかということを考えるとき、おのずからその観法の基本になるのは千利休の茶碗観であり、長次郎の「一文字」や「大黒」こそ、侘びの茶碗のあるべき姿であるとつくづくと想う。しかし茶の世界は数奇風流の場であるから、桃山時代の人達がそうであったように、やはり大井戸茶碗の「喜左衛門」に真の無作為の造形の究極を観、志野茶碗の「卯花墻」に作為の妙を看取し、光悦の「不二山」や「乙御前」に自由に風流する心の高まりを感じるのである。しかしそれらの造形性について考察するとき、いつものその造形の対象として「一文字」や「大黒」が意識の内に存在するのである。
「長次郎の茶碗」東京国立博物館次長 林屋晴三
財団法人 樂美術館編樂焼の祖・長次郎四百年忌記念「長次郎」図録より
楽茶碗は手捏ねと言う極めて素朴な成形法によって造られる。手捏ねとは、轆轤などの道具を使用せずに、手で土塊を捏ね上げて成形する作陶法である。茶碗や壺等の器形のものは、輪積法、縄積法等と称して、その起源は陶器の発祥にまでさかのばる。また今日、陶芸愛好家の間にも、それぞれ自分の趣向にあわせて、手びねりの陶芸が盛んであるが、これらも広義において、手捏ね成形の陶器と言う事ができる。
いまさら言うまでもなく、楽茶碗は、千利休の創意によって造られたものであり、そうした意味では、利休の佗茶の思想の最も濃厚に示きれた造形と言う事ができる。佗茶の為の茶碗として、手捏ねと言う極めて素朴な成形法は、単に作陶技法と言うにとどまらず、楽茶碗の本質と深く関わっているのである。特に茶の湯の為の茶碗として出発した楽焼の手捏ね作陶は、一般の輪積法等とは異なった独特の技法をあみだしている。
その技法は、練り込まれた茶碗一碗分の土塊を、平たく円形にたたき延ばし、円盤状に延ばされた土を、丸い薄板の上におき、両手のひらで、円盤状の周囲の土をゆっくりとまわしながら除々に締め上げることによって、茶碗の形に立ち上げていくのである。その手の動きは、丁度茶席で茶を喫する時、茶碗を両手で持つ時の、手の動きに類似している。平たく延ばされた土が、丁度手のひらの中に異和感なくおさまった時、手捏ね茶碗の原形(下地)が出未上がるのである。茶碗制作に最も適した作陶法と言う事ができる。しかしこの手捏ね原形(下地)は、大きなイメージにそって、形をととのえるが、土厚もあつく、まだ茶碗としての完成した姿はそなわっていない。しかし、厚い原形(下地)の中には、手の自然な動きによって、形づくられた、微妙な柔らかい美しい姿がねむっているのである。
この手捏ね原形は、数日乾かされた後、最も良い削り頃を見はからって、竹や鉄箆を用い削り込んでいく。回転する轆轤によって、瞬時の内に形づけられていく轆轤成形とは異なり、一削り一削り、じっくりと時間をかけて削り込んでいくのである。また、井戸茶碗のように轆轤成形による、回転力を利用して、土塊をおし拡げてのばしていく時の形の特色とは異なり、楽茶碗は、拡げた土を、逆に内側へ締め上げていく時の形を特色としている。井戸茶碗が高台から、口造りへ、拡がっていく力強さを特色とするのに対して、楽茶碗は、こんもりと口造りを内に抱えこんだ、内抱的な力強さをその姿の特色としている。
手捏ね成形は、轆轤成形には見られない自由きがある。器形を大きく変形する事も、箆で切り削った美しさを見せる事も、自分の手の動きに従がって自由に形づくる事ができる。自由な成形と言う事にっいては、轆轤成形に比して、作家の資質や美意識をより直接的なかたちで作品に反映させると言えることであろう。土塊を手で捏ね上げ、さらに箆で削り込んでいく作陶法は、むしろ彫刻の制作を思わせるのである。また、原形(下地)をじっくりと削り込んでいく、張りつめた時間の中では、作者は自己の全てを露呈され、茶碗はそのことを正直に語る。一碗の茶碗を削り上げる長い時間の中で、その作者と作品は密接な関連性でむすばれる。作者は、微妙な自已意識の変化を、茶碗の姿、箆跡の一削り一削りを通して、一喜一憂、思考を重ね反省し、あるいは、はにかみ、自已を確認していく。手捏ね技法の特色である作陶の自由さは、ここではむしろ逆に作者に極度な内的葛藤を強いるようである。作者は、そこで無数の自己に出会い、無数の自已を創出していくのである。そこでは、最も素朴な作陶法である手捏ね技法は、最も意識的な作陶法であるとも言えるであろう。しかし、手捏ね成形に内在する白由性と意識性は、作者の内的葛藤を通じて、きらに茶碗本来の美しきへと造形を導いていく。その美しさは、意識的な造形でありながら、さらに作者のそうした個人的意識や個性、好みと言ったものをはるかに越えたところで存在する美しさであらねばならない。
利休は、佗茶の為の茶碗の創出を長次郎に託したのであるが、長次郎の手捏ねによる作陶は、確かに、利休の佗茶を極めようとする意識過程と、深く結びつき重なりあっているように思える。長次郎茶碗は、草庵の張りつめた空間の中で、決して他を乱さず、同調もせず、端然と静かに存在している。利休の佗茶が造形化された終着点ともいえ、柔らかな内在的な強さを秘めて、無作為な姿のうえに茶碗としての完成と機能を見せている。
楽焼が他の日本のやきものと大きく異なる点は、茶の湯のための茶碗を焼く窯として出発していることである。もちろん桃山時代頃から、日本の各地の窯で茶の湯のためのやきものが焼かれるようになるが、それらの窯の多くは、本来日常の雑器の類を焼造してきた窯であり、佗茶の隆盛に伴って雑器などと一緒に茶陶が造られるようになったのである。従って楽焼は、その生業において他の窯とはまったく違った歩みを始めたといえる。
いまさら言うまでもなく、長次郎の楽茶碗は、千利休の創意によって造られたものとされているが、そうした意味では他窯のどの茶陶よりも、利休の佗茶の思想がもっとも濃厚に示された造形と考えることができる。そして桃山時代から今日まで約四百余年の間、歴代はそれぞれこの長次郎の作陶姿勢を受け継ぎ、茶碗を中心に、茶の湯のための器を造り続けてきたのである。しかし佗茶に対する意識は、時代によって少しずつ異なっている。茶の湯を語った数多くの茶書に、作法の変遷とともに、各時代の佗茶の意識の変化がみごとに表現されているように、伝世する楽茶碗を一望すれば、やはりそこに各時代における佗茶の思想と好みの流れが窺われるのである。
特に楽茶碗は、手捏ねという極めて素朴な成形法によって造られる。この手捏ね成形は、轆轤を用いた作品に比べて、作家の資質や美意識をより濃厚に直接的なかたちで作品に反映きせる。また楽焼は、他の工芸に見られるような分業制をとらず、一代一人の作家によって造り続けられていたことから、作者の生きた社会、あるいは時代の影響が、そのまま作品の上に現われるようである。
当館では楽茶碗のそうした流れをとらえるために、長次郎から現代までを三つの時代に分けて、その特色を考察した。
第一期は長次郎から道入までの、いわば楽焼における創生期である。長次郎の茶碗は利休の佗茶が造形化された終着点ともいえ、無作為な姿のなかに茶碗としての機能と完成を見せている。しかしこの第一期の後半、すなわち、常慶から道入の頃には、長次郎の無作為な造形性から作為をあらわに表現した造形へと移行して行く。これは利休没後、特に慶長から元和頃にかけての時代の好みと考えられ、また常慶・道入と親交のあった本阿弥光悦の存在も、大きな影響をあたえたことが窺われる。そして道人が受けとめた光悦の造形感は、道入以後の各歴代の茶碗にも多く窺うことができる。しかしながら、「無作為」と「作為」は決して対立したものではなく、以後歴代はこの「無作為」と「作為」の間を大きく揺れながら、各代独自の作風を築き上げてきたのである。
第二期は、四代一入から八代得入までで、当時の茶の湯との関係をとらえながら、それぞれの作風を考察する。利休没後に隆盛した自由を好みの変化による新しい茶風に対して、江戸時代に入ると、再び利休の示した佗茶に帰ろうとする動きが出てきたようである。こうした傾向は道入と同時代に生きた千宗旦の茶の湯のあり方に明らかに窺われる。ここに取り上げた江戸時代中期は、明暦から安永年間に至る百二十年余りで、元禄時代を中心にまさに江戸時代の爛熟期ともいえる。
四代一入は、長次郎から道入へと急速に動いていった楽茶碗の美意識の流れを白己の内に受けとめ、あらためて認識するとともに、自己の作陶基盤を長次郎の作品に求めていったようである。一入晩年の一六九〇年(元禄三年)には利休の百回忌をむかえている。また利休聞書といわれている「南坊録」の発見などもこの頃にあたり、利休没後、それぞれの好みにあわせて派生した多くの流派も、一斉に「茶聖利休」への回帰をとなえ始める。社会的にもそれぞれ「家」の位置づけを明確にせねばならない時期でもあり、このようを状勢は一入、宗入の作陶方向にも大きを影響をあたえているものと思われる。
五代宗入は長次郎の佗びた趣を愛したと伝えられている。一入の作陶方向をさらに深め、元禄という時代を背景として、独白の作風を完成している。宗入の作品は、技を表に現わさず、重厚な静かな趣を有し、長次郎を思わせるしっとりとした黒かせ釉は美しく、ある種の艶やかさが漂っているようにも感じられる。そこには確かに時代の香りと、その時代に生きた個人の意織を感じとることができるようである。
楽茶碗は、道入の場合のように一代で作風に大きな変化が見られることもあり、また一入・宗入のように数代にわたり、じっくりと練られて、新たな美しさを生み出していくこともある。
この時代を物語る資料として、宗入文書と言われる三通の古文書が伝世している。この文書は、若い宗入が父一入とともに、長次郎以来の楽焼の系譜と樂家の系図を記したものであるが、宗入自身にとって、この文書作成は、自已の位置を認識し、作陶方向を定める一つの契機ともなったであろう。
宗入以降、第二期の後半六代左入において、再び作風に変化が見られるようになる。左入の初期と思われる作品には、宗入の影響が窺われるが、おそらく、長次郎・道入・特に光悦などの名碗の数々をじっくりと観察したのであろう。それぞれの作風を、一つずつ自己のものとして修得し、一入・宗入とは明らかに異なった作陶方向を示している。意識的な箆使いや、巧みな土取りなど、左入の技巧はすっきりとした姿の内にみごとな均衡を保っており、そこにはある種の「近代的」な美しさが感じられる。
七代長入は、左入以来の技巧性をさらに強め、多くの新しい試みを行っている。その作品の多くに、意識的な箆使いがみられ、線彫りに金泥を施したり、金泥絵付けによって、玉の絵や竹、梅などの文様を現わし、また印を意匠として用いるようになる。しかしながら長入の技巧は、ややもすれば左入の均整のとれた美しさに比べて、煩雑さへと均衡を失う危険性を有しているようにも思われる。
左入から長入の時代、千家では如心斎、一燈の時期にあたり、茶の湯も「七事式」を始め、いろいろな新しい試みの行われた時代であった。また紀州徳川家をはじめとする大名、あるいは鴻池家といった町人との結びつきも深まり、茶道人口の増加にともなって、経済的に安定した時期をむかえている。
当美術館に収蔵されている如心斎の文の中に紀州徳川家に仕侯した若き如心斎が、左入に宛てて御用のお茶碗を依頼しているものがある。事細かい心配りが文中に窺われる。紀州徳川家、千家、樂家との関係を示すものとして興味深いものである。
第三期としては九代了入が作陶を始めた明和年間から、幕末・明治を経て十三代惺入の没した昭和十九年までの約百八十年余りと考えることができる。
九代了入は長入以来の装飾的な技巧を、自已の作陶方向の中に明確に位置づけたようである。これまでには見られなかった自由な強い箆削りを縦横に駆使し、口造りにも変化を見せ、時に高台の造りは鋭く他に類を見ない。この作為的な技巧は、長入以来の装飾性として考えることもできるが、やはりそこには、長入とは本質的に異なった了入の作陶要素が窺われるのである。了入の残した数多い作品の中には、長入のように、玉之絵や松之絵など、絵付けをした茶碗も残されている。しかしながら、すでに述べたように長入の作風ともっとも異なる点は、箆削りに見られる作為の表現法であろう。すなわち、鋭い箆削りと箆跡が生む形の変化に、了人は白由な個性の表現を見い出したようで、その一削り一削りに自己の造形意識を集中きせていったようである。長入のひかえめな、幾分不確な箆削りに対して、了入の箆削りは、明確かつ適確であり、さらに自由な作行きを表現したと言える。その力強い箆削りは、茶碗の造形性と結びついて自由な形体を生み出しているが、時として、下地(削る前の手捏ね原形)のもつ自然な造形を越えて、均衡を失ないかけていることもしばしば見うけられる。しかしそこには自己の作陶を、「作為する意識」のなかに明確に位置づけた了入の強い姿勢が窺われ、さらに「作為する意識」が究極のところ「無作為のもっ自由性」へと転ずることを認識する了人の強い意志が窺われる。おそらくそれは長次郎以未の楽茶碗の伝統を受け止めた後に、了入が築き上げた作陶姿勢であったものと忠われる。このように明確に打ち出された了入の作陶方向は、いわば、近代の楽茶碗の出発点として、以後の歴代に大きな影響をあたえていくこととなる。その中で最も直接的な形で了入の作陶を受け継いでいったのは、やはり了入の次男、十代旦入であろう。旦入の作行きには、了人程の大胆な変化や、おもしろ味は見られないが、素直な幾分繊細な趣きを持っており、箆使いもさらに多様になって、装飾的効果を十分にねらった作行きが展開きれている。掛分け、黄はげなど釉掛けに工夫をこらし、赤茶碗の場合も、火替りや窯変によって変化をおびた彩やかな色合いを呈するようになる。
一八一九年(文政二年)には、紀州徳川家十代治宝候の偕楽園御庭焼が創設されるが、旦入は父了入とともに出むいて作品を焼いている。そうした中で、国焼物を学ぶ機会も多かったようで、織部の意匠を取り入れたものをはじめ、瀬戸・伊賀・信楽・備前風の作品も多く残している。旦入は、一八一一年(文化八年)に吉左衛門を襲名、以後四十三年の作陶生活を送り、一八五四年(嘉永七年)六十歳で世を去った。
十一代慶入は旦入の養子として十一歳頃樂家に迎えられた。吉左衛門を襲名したのは二十九歳の時、一八四五年(弘化二年)であった。幕末、明治という変動期に、茶の湯も衰退し、慶入はこれまでにないもっとも困難な時代を迎えている。慶入の作風はかなり了人の影響を受けているが、慶入独自の清楚を趣きをそなえて、細かな所にもよくいきとどいた精緻な作振りがポされている。また作域も広く、茶碗の他にも、鉢や向付、さらに煎茶に用いる陶器も焼いていたようである。明治に入ってからは萩や備前に出かけ、その窯場で造り焼いた作品も残っている。楽焼は轆轤を使用せず手捏ねで造られるが、慶入は轆轤も修得していたようで、各地の窯場における作品や、西本願寺御庭焼の作品の中には轆轤を用いたものもみられ、慶入の多彩な作風の一端を窺わせるものとして興味深い。
十二代弘入は一八七一年(明治四年)十五歳で吉左衛門を襲名しているが、明治維新後の変動期にあたり、そうした困難を時代を反映したものか、若い時期の作品は数少ない。了入・慶入の影響が強く現われた若い時代の作風から脱して、弘入独特の作風を展開するのは、時代的にも落ち着き始めた弘入の吉左衛門時代後期から隠居時代である。この時期の代表的を作風は、丸味のある腰が強く張り、口部がかをり強く内にかかえこまれている。胴には巾広い横箆をまわし、高台は小さく深く削り込んで、全体のおとなしい姿に反して、大胆な強い箆が実におもしろい変化をあたえている。第一展示室に陳列した赤茶碗は、弘入の中期から後期にかけてのこのようを作風を示す代表的作品である。
十三代惺入の作陶期は、大正から昭和前期にかけての約二十五年余りである。この比較的短い作陶期の中で、惺入は楽茶碗のあらゆる技法を試み、さらに他の陶芸の技法も取り入れた多彩な作陶を行なっている。しかし作風の上ではあまり大きな変化を示さなかったようで、畳付きの平らな円形の高台の作りなど、ぼぼ一貫した作行きが見うけられる。また、水指、鉢、向付など、精緻な細工を施した作品も数多い。
ここに歴代の作風について簡単に述べてきたわけであるが、再度、了入以後の歴代を通じて「近代の楽茶碗」に共通した特色をあげてみることとする。楽茶碗の四百年余りの歴史を通じて、常にその根底に流れ続けてきたものは、やはり長次郎の作風であったと言える。しかし、それぞれの時代、各歴代において、長次郎の作風に対する受け取り方は異なっているようで、特に了入以後の雌代にとって、長次郎の作風は、楽茶碗の基本形として若年期に学ぶべき大きな勉学の課題の、一つになっているようである。江戸時代中期における一入、宗入の長次郎の作風への傾倒とは、本質的に異なったものと言える。むしろ了入以後の歴代は、長次郎茶碗の形体を学びつつ、そこに了入の示した作為性を介在させながら、自己の個性的な作風を築いて行ったようである。さらに長次郎の作風とともに道入の作風にも取りくんで行ったこともこれら近代の歴代の大きな特色といえるであろう。了入の示した作為的な方向は、新たに作陶家の個性の開花をうながす結果をもたらし、さらに近代に入って、楽茶碗の鑑賞、批評の手がかりとして作家の性格と作品を一致させる見方が強くなったことも、この結果によるものである。しかしをがら、個性を軸として単純に作家の性格、資質と作品を結びつけることは、あやまった結果をまねく危険性があることも知らねばならない。同時に、個性という近代的な概念でとらえることのできない長次郎の作陶に、再び照明をあてて考えなおすことは、これからの楽茶碗の大きな課題の一つといえる。
第三期了入以降の時代は、近代楽茶碗として我々にもっとも近いゆえに、多くのことを学ばせてくれる。幸にも了入以後、一生に数個の印を用いるようになり、捺された印によって作品の制作年を推定することができる。
(樂美術館研究室)財団法人樂美術館編「樂歴代」図録より
日本人の生活は「土」と深く交わりながら発展してきたと言える。我々は「土」に対する強
い愛着を感じまた特別な感覚を育ててきた。特に茶の湯はそうした我々の中を流れる「土」に対する素朴な感性に一つの形をあたえ、明確な美意識にまで高めた。その茶の湯の陶芸を代表する楽茶碗初代長次郎の赤茶碗は、聚楽土の止に透明釉をかけて焼上げたものであるが、胎土は火の自然を力によって柔らかな赤色の肌に生まれ変わり、土肌をあらわにした素朴な味わい、その趣には確かに利休の佗茶の意識が充分に窺われる。茶室の壁土を荒壁のように残した利休の同じ意図が、長次郎茶椀の中にも感じられるのである。
まさに「土」は楽茶碗の美の生命とも言えるのである。楽歴代の使用した土は、特殊なものを除いて京都市中あるいはその周辺より堀り出されたものである。
文献によると、
●聚楽土(長次郎より使用)
●岡崎の白土(道入の頃より使用・京都岡崎周辺の土)
●大亀谷の白土(九代了入の頃より使用)
特殊な土として
●備前土、伊賀、信楽土、シャム土(南蛮土)等が上げ
られる。
土の調合
●新土
樂家では、歴代それぞれ、良い陶土を探し、一生に数度、大量に入れることが、家訓となっている。しかしこの新しく掘り出された土は採取した本人は使用せずその孫あるいは曾孫が用いる。特に当美術館の敷地は樂家より当財団に寄贈せられたものであるが、以前はそうした新しく堀あてて入れた土を、さらしておく場所であった。ここに七、八年自然のまま放置せられ、後、窯場裏にある土小屋に何十年もねかきれたくわえられる。
●古土(削り残土)歴代が順次削り残した土
楽茶碗は手捏ねの下地(原形)を箆で削り上げていくが、その時生ずる多くの削り残土は集められて大桶の中に、たくわえられる。樂家には歴代が順次阿度も造っては削りして、残した削り残土が数個の大桶にたくわえられている。現在のものは、九代了入の頃よりの歴代の削り残土である(それ以前の土は天明八年頃の火災により大半を焼失したと言う)
●土の調合
古土(削り残土)に、新土をまぜて基本となる胎土を調合する。さらにその上に歴代独自の土を加えてその特色を出す。
京都市上京区油小路通中立売上ル。当代は十五代・楽吉左衛門氏。
道入はさらに黒粕を胴の上部に数回塗り重ね、焼いているうちに熔けた黒柚が、下部の薄い薬の上に幕のように垂れ下る幕薬の技法を生み出した。またこの時、黒釉中の不純物のため幕状の裾が美しい青白色の、帯状の窯変をおこすことがある。これを蛇蝎釉(だかつゆう)とよぶ。
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これを「引出し黒」という。窯の中に入れたまま自然に冷やすと、茶色になってしまうからである。瀬戸黒も同じ方法である。
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いわゆるお土産物の楽焼は八百度位でも熔ける黒釉や赤釉が作られてからで、ごく新しい
ものである。
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この石は、紫色で、原産地は鞍馬山である。
これを小さく砕いて薬研(やげん)にかけ、細かくする。
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『江戸伝書』(『陶工必用』)『佐野伝書』(『陶磁製方』の二部ある。
元文二年(一七三七)、尾形乾山七十五歳の時、江戸と佐野で書いたもの。二書ともほぼ同じ内容で、いろいろの陶磁器の作り方が書かれており、楽焼も出ている。楽家五代の宗入は乾山の従兄弟にあたり、乾山に楽窯の作り方を教えているので、この伝書中の楽焼に関する記述はかなり正しいものと考えてよい。
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注:4
もっとも、覚入さんはわたくしの説に反対で、初代長次郎の時から素焼をしているという。しかし、道入の釉のかかっていない部分の胎上は素焼のため固くしまっているが、長次郎のは釉と土がいっしょに熔け合って、しまり方が足りないように思われる。赤楽については、聚楽土と黄土との違いにより赤色の発色の仕方が違うというが、素焼をしていれば、黄土が多少悪くても、もっと赤味を帯び、艶が出るのではないかと思う。
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利休が晩年開いた百回の茶会の会記だが、原本が伝わらず、類本に各種の異同がある。
間違いを訂正しつつ利用すると、充分価値がある。
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楽茶碗で口作りの凹凸をいい、必ずしも五とはきまっていない。
天目茶碗と高麗茶碗
天目茶碗は、中国へ修行に渡った禅僧が、茶礼に用いる茶碗として持ち帰ったものであるが、茶の湯に使い始めると、六畳以上の広間の席で、台子の上に、天目台にのせて飾った。貴重なものなので、高麗茶碗を茶筅置きと称して茶巾や茶筅を入れるのに用いたり、薄茶用に用いているうちに、この方が天目茶碗より使いよいし、芸術的価値のあることが認められ、天目茶碗を追い落として主茶碗に使われるようになった。
注:5
三畳台目以下の茶室が使用された記録は次の通りである。
二畳台目=天正十三年六月から文禄元年末までに24回。
三畳=天正十四年四月から文禄元年末までに61回。
二畳=天正十四年十月から文禄元年末までに71回。
三畳台目=天正十四年十二月から文禄元年末までに4回。
一畳台目=天正十五年十月から文禄元年末までに4回。
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注:6
楽茶碗の初見は、『松屋会記』天正十四年十月十三日朝、中ノ坊井上源吾茶会の「宗易形茶碗、吸茶、三畳」である。しかし林屋晴三氏は、『天王寺屋他会記』天正八年十二月九日の宗易茶会に、「ハタノソリタル茶碗」とあるのが、長次郎の赤楽茶碗の道成寺を指しているという考えで、天正八年(一五八○)末を楽焼の創始期としている。
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聚楽第(じゅらくだい)
秀吉が京都に造った、お城風の大邸宅で、聚楽城ともいう。天正十四年(一五八六)春着工し、翌年九月に完成した。のち、秀次の居城となったが、秀次の死後取壊されて、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門として一部が現存している。
千家の宗匠の指導で、その好みにあわせた茶道具を作る次の十家をいう。楽家のほか、塗師の中村宗哲、柄杓師(花入・茶杓)の黒田正玄、表具師の奥村吉兵衛、金物師の中川浄益、指物師の駒沢利斎、袋師の土田友湖、釜師の大西清右衛門、陶器と風炉(茶の湯で使う小型の丸い炉)の永楽善五郎、そして一閑張の飛来一閑の各家。
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もと明の人で、寛永年間帰化した飛来一閑が始めた漆器の一つ。木の原型を用いてその上に漆やのりで紙を張り重ね、型をぬきとって漆を塗ったもの。千宗旦はその雅趣ある作品を特に好んだ。
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一入の代、庶子の一元がその母とともに楽家を出、玉水に新しく窯を築いて始めたのが玉水焼である。二元弥兵衛は、養子の宗入より二歳上であった。一空と、任土斎の三代で跡が絶えたが、一元の弟子で玉水村八人衆のひとり、伊縫甚兵衛が四代を継ぎ、そのあと明治まで続いたが、明治初年、廃窯となった。一元と任土斎には見るべき作品がある。
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